2006年12月11日 (月)

心の豊かさを嗜む

すでに師も走る月に突入…時間の精神的経過速度は去年に比べると恐ろしいほどに加速していることに改めて驚く。年末は比較的ノンビリになるだろうという予測は思いっきり裏切られ、新規案件などが目白押し、加えてクリスマスパーティは何件も入り貴重な自由な時間を蝕んでいく。

そんな多忙な中でも、この時期に必ず欠かさないプライベートイベントがある -固くいえば文化鑑賞、平たく言えばコンサートや劇。と言っても、ゲーノージンのライブとかそういったレベルのものではない。比較的敷居の高い「文化」的な芸術にふれるイベント。


劇・ミュージカル・歌舞伎・オペラに始まり、ボサノヴァ・ウクレレ・マリンバ・ピアノソロなど“気品高い音楽文化”をできる限り1年に2回以上は見に行くようにしている。今年は南米の楽器であるアルパ演奏、テノール、そして連弾ピアノ演奏と異種混合3部構成。しかも音響がオペラシティのメインコンサートホール。さらに前から3列目+中央から少しだけ右側のベストシート。少しフォーマルな格好で出かけるのも気持ちが引き締まる。

このホール、実は相当凄いらしい。
「1997年9月10日にオープンしたコンサート専用ホール。
音響的に最もよいとされているシューボックスタイプで、高い天井には大胆な変形ピラミッド型を採用し、内装には振動体・共鳴体として優れている「天然木」を使用。現代の最新音響技術を用いて設計。これにより、ホール自身が、分離よく明瞭に響き、引き締まった低音とメローで艶のある音色を持つ巨大な楽器となる。(HPより)」まぁ箱の説明はどうでもいいのだが、環境は非常に大切である。


それぞれの演奏者はオーディエンスの有無に関わらず心から楽しそうに、そして楽器や歌に対して至極の愛情を注いでいるかのように音を奏で声を発する。一般的なライブのような「魅せる」ステージではない。自分自身が楽しむがごとく、パフォーマンスをするのだ。その姿は全ての人を笑顔にするだけでなく、心を暖め幸せを充填してくれるようである。そこに気品ある芸術の圧倒的な強さがある。

別に歌手たちのコンサートが良くないというつもりはないし、実際僕も海外のアーティストのライブには行っていた。アーティストとオーディエンスが一体となって踊ったり叫んだりするノリも楽しいし好きである。しかし、数多くの「芸術的な音楽」に触れていると、所詮ゲーノージンのそれらは“エンターテインメント”に思えてならない。(いや、そのとおりなのだが。)


それらはその一瞬は楽しい。しかしオーディエンスの心や生き方はそう豊かにはならない。芸術は高貴なまでに人々の心に語りかけ、魂を揺さぶる。「こんな風に観せるとウケがいい」という“パフォーマーの意図”が前面に出るのではなく、自らが心から楽しむ姿がそのまま波動となって「結果的に観客を楽しませる」ところに芸術性があるのではないだろうか。ゆえに観る者の魂を呼び覚まし、震えたり涙するような感動を起こし、心を豊かにする…。もちろん音楽だけでなく絵画もしかり。
こういった心の豊かさを育むことは気品ある人生を創るのに欠かせない要素である。時代や国境を越えて人々に愛される「本物」を嗜むために時間やお金を費やすことは、ある種の自己投資ともいえる。人生も同じ。一流になりたければそれなりの対価を投資し、同じ目線を経験しないとその高さの視界も分かる分けない。つまり一流を知る努力をしなければ一流にはなりえないのだ。


少しくらい背伸びしても、本物にふれる心意気はいくつになっても持っていたいものである。

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2006年11月21日 (火)

栄養素「読書」の習慣的摂取

時がたてば人も変わるし生活スタイルも変わる。それを知らずにいるのと、それ気付きその意味を理解しているのとは大きな違いがあると思う。自分の中の変化を認識することは、能動的だろうと受動的だろうと変化を受け入れることであるから。


春以降の生活パターンの変化の一つに、電車に乗らなくなったことがある。最初は雨や帰宅が終電以降になることが予め分かっているときだけ車でクライアントへ向かったが、次第に僕の中にある惰性は、月に数回が、週に数回、そして毎日の習慣へと堕落させていく。

首都高代と駐車場代を計算すると1日あたり3400円とバカにならないが、遅くまで仕事をして数本の電車を乗り換えながら1時間以上もかけて人ごみのストレス抱えて帰宅することと、車庫から出して20分後には家でスーツを脱いでいることを比較すると、後者のほうが極めて時間を効率的に有効に使えるのも事実。時間を金で買う感覚ともいえる。

しかし選ぶことは捨てること。電車の中は必ず読書か睡眠の二者択一の時間であったが、その読書の代替時間を取らなくなったのだ。そして次々に入ってくる仕事にウツツを抜かしていると、未読の本が積み重なる…。気になった本は躊躇わずアマゾンで購入するが「消化」されないのだ。


本から得られる知識や疑似体験は非常に重要であるのはよくわかっている。年間30冊以上を-ミステリー小説のような身にならない本ではなくビジネスに関する本のみで-を読むようにしているのもそのため。ゆえに仕事のない週末にまとめて読むパターンになってきている。それはそれでいい変化。休日の過ごし方が少しだけ優雅にそして知的に感じられるから。

例えば、天気がいい日は、波乗りの後フォールディングチェアか近くのオープンカフェで。

例えば、あいにくな雨の日は、いきつけのハワイアンカフェかヒルトンのティーラウンジで。


ただし、その時の本の内容にも実は注意が必要だったりする。経営者個人の生き様系は2時間もあれば大体目を通せるし楽しく読める -自らを刺激するスパイスでしかないが。一方、P.コトラーやP.F.ドラッガーのような非常に専門的なものはそれなりに時間がかかるし一度読んだだけでは完全に理解できない -ノウハウを自己現実に投影して自分なりの方法論に変換するからである。したがって、その時の気分と心の状態によりセレクトする。


人間が様々な栄養素の摂取を必要するのと同じく、ビジネスマンは多くの実体験と読書から学びながら生きている。ゆえに生活スタイルが変わっても習慣のように読書を「摂取」しないとならない。ゲームやテレビも個人の趣味だし悪いとは思わない。しかし、電車の中で死んだ魚のような目をしてだらしなくマンガを読んだりゲームをしているような、少なくともそういうダメリーマンになってはならない。

スタッフルームに設置したライブラリ。スロースタートではあるが、借りる人の履歴が残されはじめている。まだまだ経営関連かブログなどスキル関連など、本の種類に偏りがあるものの、それはこれから豊富にしていけばいい。人生、特にビジネスキャリアに効く読書が習慣化するのは時間がかかるかもしれないが、「意識して」読書をすることは“絶対に”価値がある。早くそれに気付いて欲しいと切に願うばかり。

週末読んだリッツカールトンの本は、明日には社内ライブラリーに並ぶだろう。

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2006年11月 2日 (木)

Better than リッツカールトン !

リッツのクレドが有名になって久しい。それに関する書籍も数多く出回り、経営者や人事関係者にはホットな話題である。クレドの真意と本質そのものを深く考察してみたいと思っていた折、クレドのセミナーに参加。2回目にあたるそのセミナーの今回のプレゼンテーターはジョンソン・エンド・ジョンソン社の方。

その歴史を紐解くと、実はクレドはJ&Jで1943年に「Industrial Credo」と命名されて作られたものが始まりであり、その後1948年に「Our Credo」と改名され、現在のJ&Jに脈々と受け継がれる価値観として浸透している。そう、J&Jがクレドの生みの親であり、リッツのクレドはそれを参考にしているとのことで、情報交換も頻繁に行われているらしい。

そのセミナーでは、J&Jの会社説明から始まり、クレドの生まれた背景やクレドに謳われる精神、そしてその浸透方法についてなどなど、本当に有益な内容が満載。人事や組織の専門用語が日本語と英語で普通に飛び交っているため、参加者がどこまで理解できたかは不明だが、少なくとも僕にとっては“すべて”「府に落ちる」ものであった。


頷きながら聞いていたが、それと同時に多くの経営者とのクレドの話の中で、彼らが理解しているクレドが間違った解釈であることに気付く。クレド=社員が守るべきルールに直結しているのだ。そもそもクレドとは、僕が解釈するに、「企業のミッション(使命)に深く根ざした社員全員が遵守すべき組織価値観とそれを行動ベースに落とし込んだ主体的行動基軸」であると思う。

つまり、社員が守らなくてはならないものであるのは同じなのであるが、「社員を縛るルール」か、「組織の根幹を深く解釈した上での規範的行動」が最大かつ重要な相違点である。


⇒どういうことか?

経営する上での最上位に重要なMission/Vision/Valueが明確化していないのに、クレドなんぞ作っても意味がない!ということだ。それらなくしてクレドを作るのは、「クレドという名の経営陣にとって都合のよく社員を縛るルール」でしかない。そこを勘違いしては意味がない。

J&Jやリッツのクレドには必ずMission/Visionで謳われる本質が加味されている。彼らの言葉を拝借すると、「地域社会に対する責任」が埋め込まれている。つまりそれは企業のMission=使命に端を発するものであり、全てが相互に密に関連し合い、組織のコアバリューを形成しているのだ。


そして何よりも嬉しかったこと。J&Jには「クレドーオフィス」という「事業部」がある。その名の通り、クレドを浸透させることを使命とした事業部。そこで、我々経営陣が新たに構築してきた自社のを振り返ると、Mission/Vision/Valueの策定・浸透後、Value(≒Credo)を浸透させる自主的スペシャルチームを結成することを勧め、運営までをサポートしている。つまり、「部」か「有志」かは別としてもクレドーオフィスと同じ機能を自社組織に埋め込んでいることになる。しかも仕掛ける我々経営陣が完全に同義にクレドを捉えた上で、図らずしてその素晴らしき機能を有しているのだ。そう、それが「MACOCORO会」である。

J&Jが組織として浸透事業部を持っているのに対し、我々は「価値観浸透徹底のために“自主的に”集まったチームを持っている。この主体性がJ&Jよりも優れていると胸を晴れるところである。その誇り高きメンバーたちと共にスタッフ皆でより素晴らしい組織を作っていけるようバックアップする共に、自社のクレドを策定するのもいいかもしれない。価値観とそれに基づくクレドが浸透し、スタッフ自らが守れるようになったとき、組織はどんな外的環境下でもブレずに成長できる非常に強い組織になっているのだ。

早速2月を目処に模索を始めることとする。

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2006年10月12日 (木)

サラリーマン根性を捨てる。

ある木曜日17時半。この日、自社から2名の戦士が麹町の戦場へ向かう。先々月、月日をかけて組み立ててきた全社員および階層別の合宿が一通り終了し組織=「集合体の力」の強化に一時的ピリオドが打たれた。そして、この秋から戦略的に組まれたエデュケーション・プログラムとして徹底的な「個の力」の強化期間に突入している。

組織を強化する鉄則の大原則の一つに「上からいじる」がある。上が変わらずに、下が変わることはありえない。したがって第1発目の“犠牲者”に次世代リーダーが選択され、その方法論の1パーツとして、ビジネススクール通学が採択される。このスクールは僕自身が9科目を終了しているため、実体験的に有効性が高いと証明済。


通常、学生の身分を終えると途端に多くの人が「学ぶという努力」から遠ざかる。大手企業には特に見られるが、最近はフヌケなベンチャー企業でもその傾向にあるように思う。その心理背景には、ある程度仕事をしていれば地位や給料が下がることもないし生活にも困らない、という「企業の安定神話」に甘えていることもあるだろう。

また企業サイズに関わらず、企業の名前でなく自分の裸一貫で立てるようになること、つまり自分の市場価値の向上(独立という限定的意味に限らず)が、自分の将来を充実させ、いわゆる真の勝ち組に続く路であることを理解している人は意外と少ない。さらに、悲しくもOO商事などスーパー大手のスーパーリーマンは「自分の力」と「所属企業名の力」を完全に勘違いし、自己鍛錬努力に手を抜くマヌケの典型例もある。「学ぶ姿勢を忘れた社会人」はただの「企業に飼われる“羊”」であることにも気付かずに…。

「個の力」を強化するのは短期的には会社のためかもしれない。しかし僕はそんな安易な考えでエデュケーション・プログラムを構築したのではない。一人ひとりが「自ら考える脳ミソ」を所属する組織の中で持ち、組織の“モーター意識”を持つことが、中長期視点で見ると「本人にとって自信と誇りとビジネスパーソンである自我」を創出することにつながる。つまり、何があっても「自らの力」で世の中を渡っていけるビジネスパーソンへの路。それを「絶対受けなくてはいけないんですか?」と聞き返す人は自己の市場価値を甚だしく勘違いしているか、もしくは共に働く価値のない人間としか言いようがない。


このビジネススクールの厳しさと有効性を僕から散々叩き込まれた次世代リーダー達は、制度上の悲しき「行かされる感」に浸かるどころか、どうせ戦うなら全身全霊をこめてぶつかる勢いがギリギリと漲るいい顔つきで向き合っている。実は、この時点で僕が深層心理で狙いたい目的を半分達成しているのだ。ビジネススクールで学ぶ教科の専門的理解は当然とし、それ以上に学んで欲しいことがある。

●普段、いかに「シッカリと考える」ことをせずに生きているか
●普段、いかに「狭い価値観の世界」で生きているか
●普段、いかに「自己の極みへの挑戦」をせずに生きているか


1教科3ヶ月間x週3時間の授業と30名/クラスの戦友との付き合いにおいて、上述の成長努力と具現行動化につながれば12万円なんて本当に本当に安いものである。大げさであるがいうなれば、ビジネス人生の特訓。それに専門知識が乗ればモウケモノである。


家族でもある大切な次世代リーダー達、そしてそれに続くポテンシャル高いスタッフ達よ、何も考えずに与えられたことだけをやってエサ=金をもらっているサラリーマンという「羊」になるな。常にビジネスにおいて何が本質で、常にデカイ世界やその価値観を意識しながら、常に自らを鍛錬・成長し続けるビジネスパーソンたれ。

果たして、我社の熱きリーダー達はどのような第1回目の洗礼を受けてくるのだろうか。明日の顔つきが楽しみである。

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2006年9月22日 (金)

弛まぬ歩み

動き出した教育制度第一弾、ビジネススクールfor幹部。ハードルの低い基礎コースは初回回避し、第1発目からコアコースへ殴り込みをかける(いや、かけられることになった)2名。出来るクラスメイトにキャッチアップしていけるかどうか、無事終了できるかどうか、家族とのバランスは・・・心配の種は尽きないはずである。それを十分に理解した上で、それでも3ヶ月間修行の旅に。

僕自身、2002年から9教科を受講し、すでに多分150万円ほど投資して経営理論と現実を結びつける作業を続けてきている。経験と勘も大切だが、セオリーをケーススタディーベースで理解していると、より肌感覚がセンシティブになりリアルで失敗の少ない経営判断が可能になる。この3年半に及ぶビジネススクールでの戦いなくして、今の僕はいないといっても過言ではない。学んだことを即現実で応用実行できるメリットの裏に同居する通学系スクールの大変さであるが、使い方次第で実践において絶大な意味を持つため、やめられない魅力がある。

とはいえ、仕事をしながら通学するため、そんなに簡単なことではない。夜は眠いし、週末は遊びに行きたい。予習だけでも10時間ほどかかるし、レポート作成となると10日間で60時間ほど使ったこともある。しかし、どんなに多忙でも、どんなに体調が悪くても、予習・復習は絶対に欠かさない -手を抜いたらクラスでは戦えないし、そんな生活をしているのは自分だけじゃない。クラスメイトには子供がいる人もいれば、授業後に仕事に戻るツワモノもいる。言い訳は出来ない -そう、何かを得るということは、何かを捨てなければならないのだ。

 

2006年度4月期に追加で受講した講座に、数年ぶりにクラスが一緒になった仲間を発見。彼は29歳という若さで80名の部下を率いる部長に駆け上がった -しかも瀕死の部署をV時回復をミッションとしているポストにて。彼と再び机を並べて勉強できるのは、何よりの刺激である。彼とはHRM(人的資源管理)でクラスジャックした仲。講師をも圧倒する理解力と説得力と論理性 -最強にして最悪なコンビだっただろう。

通常エントリークラスに近いほどみなモチベーション高く、発言も活発で飲み会も非常にパワーにあふれる。しかし今回の組織行動学は、どちらかというと40歳前後がメインの「会社から行かされてきました」感あふれる覇気のないくたびれた連中ばかりゆえに、彼とのクラスでの再会は深い意味を持った。

クラスでは時には熱く討論し、時には納得感満載で頷きあう。それが理解深度のバロメーターであり、モチベーションの源泉である。そして何より、ON/OFFにかかわらず趣味の話から人生論、恋愛・シモネタなどのBoys Talkだけでなく、ビジネスの根幹や理論を応じた現実の話題まで、お互いの成長を助長できる話題で幅広く語れるのが決定的違いである。バカ話は誰とでもできるが、深い考察を交えた経験に基づく高度なビジネストークはそうはできない。

 

「俺たちは、完全に勝ち組。もう、どうしようもない。どうあがいてもそう決まってるんだよ。勝つ以外の道は用意されていない。だって勝っちゃうんだから」と。

数年来、頻繁に集まっては飲んだくれ、いつもこの同じフレーズを繰り返し語っている仲間がいる -彼をはじめとするMBAで出会った生涯の戦友がもう2人。一見、勘違い甚だしく傲慢に聞こえる。確かにそうだが、心が折れそうだった時何度もこのフレーズとそれを繰り返し語る仲間の笑顔に支えられたことだろう!しかし実際4人とも今全員着実に確実に勝ち組路線を歩んでいる。1人は急成長中の外資系IT企業の社長に就任。もう1人はメガ飲料会社のマーケティングマネージャー。そして僕は役員を務める傍ら、自社を経営し順調に成長軌道を描いている。

口で豪語するのは簡単だが、なかなか手に入らないものを「本当に手に入れること」 -それはたった1つのシンプルな真実に集約されるといっても過言ではない。それは

                      「勝つ努力をし続けている」こと。

努力をしない者は栄光を手にする資格はない。ましてや、勝ち組であることも絶対ありえない。努力をすれば必ず勝てるわけじゃないが、しかし勝つ人は必ず努力している。チャンスの女神は努力をしているものだけに微笑むのだ。努力という言葉がバカにすらされる時代。努力もせずに会社や上司の愚痴ばかり言い合い、責任転嫁している低レベルの社員。そういう者は一生そういう負け犬人生を送ればよいのだ。それがイヤなら前向きに努力して弛まず歩むしかない。

 

ビジネススクールで出会うべくして出会った戦友とはこれからもずっと刺激しあい、切磋琢磨できる関係を保っていきたい。そして何年、何十年経っても勝ち組でい続けながら、人生を楽しく笑いあいたいものである。。それは努力の賜物だから。

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