それは「見られる対象」でありながら、上ってしまえば今度は
「見る視線」に逆転しまうという二重性こそが、“タワー”なる
建築物の持つ独特の性格と言えます。
「モーパッサンは、自分が少しも好きではないエッフェル塔の
レストランで、しばしば食事をした。だってここは、私が
パリで塔を見ないですむ唯一の場所だからさ、と言いながら」
(ロラン・バルト『エッフェル塔』)
このようにタワーとは、都市を見る視線であり、また、
都市のどの場所からも見られる事物でもある、ということ。
そして、もうひとつの特徴。様々な機能で充ちた都市において、
タワーほど「無意味なもの」として表象されている建築物はない
ということ。勿論、電波塔としての機能はあります、一応。
しかし東京タワーやエッフェル塔を考えても明らかなように、
それらはその都市を象徴する「名所」としての役割の方が
圧倒的に強い。パリ=エッフェル塔、東京=東京タワーのように。
↓は富嶽三十六景ならぬ「エッフェル塔三十六景」より。
(Henri Rivière / six Vues de la Tour Effel , 1902)
このように無意味であることに決定的な意味があるのがタワーの
もうひとつの特徴です。人間というのは、無意味なものに
対して大きな不安を抱いてしまうもので、無意味なものに
対しては何らかの意味を与えずにはいられません。このような
「意味化」のプロセスは様々なところで見ることができます。
自然に対し科学が存在し、美に対して芸術が存在するように。
すべての行動に目的ややりがいを求めるように。
または、死に対して人生の意味を考えるように。
無駄遣いなどの「無駄」の概念など、エトセトラエトセトラ。
※エッフェル塔も建設当時は科学万能主義の風潮の中、
パリのゴミとして相当の非難を浴びています。
そんなわけで、タワーは意味という点であまりにも空虚であるが
ために、人々はそこに様々な思いを託し、タワーはそれらを表象
するものとして都市に欠かせない存在となっているのだと
考えることもできます。ふと東京タワーが目に入ってきたときに
「嗚呼、東京。」と感慨を深めてしまうのも、ついつい
写真に撮りたくなってしまうのも、めいめいの東京観のような
ものがあって、それを東京タワーが象徴しているからなのでは
ないでしょうか。
そしてタワーから都市を眺めるとき、住み慣れた街でも
見るべきものとして、つまり“解読するべき作品”として
視界に入ってきます。「靖国通りがあれで、あれが御苑だから、
えっと、あそこのあれは何だろう・・」等々。
お決まりの会話です。
東京が世界有数のコンクリートジャングルでありながら、
人を惹き付けてやまないのは、東京タワーがあるから!
・・というのは極論だとしても、まんざら間違っても
いないように思われる狛犬です。
エッフェル塔のないパリというのが物足りないように、
東京タワーのない東京はやはり物足りない。
大げさに言えば、見えざる心の中心でしょうか。
以上のように、都市においてタワーというのは、ハードとしての
機能を超越した独特の性格を持っています。
偶像崇拝対象としての仏像やマリア像のように、置き物や土産品
としてミニチュアタワーが多く販売されている現状についても
その理由付けができます。小さいタワーを通してタワーに対する
“幻想”—東京やパリへの郷愁—を追体験できるモノとして
それらはミニチュア化され、商品として増殖し続けている・・
置き物の小さな東京タワーを買う人は、「東京を買う」という
感覚でいるに違いありません。これがあれば部屋にいながら
いつでも東京に行ける、とかなんとか思いながら、帰って部屋に
小さい東京タワーを飾り、その人は東京を所有したような気分を
味わうことができるのです。想像力と愛がありさえすれば。
かくいう狛犬もそういう事情で小さなエッフェル塔を
ついつい買ってしまいます。行ったこともないパリですが
想像力と無償の愛で毎日毎日小さなエッフェル塔を眺めていると
パリがとても身近なものとして感じられてくるから不思議です。
i 小さなエッフェル塔の置き物
金 額:980円
満 足 度:★★★★★
クオリティ:★★★★★
パリ指数 :★★★★★
ii エッフェル塔のスノードーム
金 額:1000円
満 足 度:★★★★☆
美 し さ:★★★★☆
レ ア 度:★★★★★
〜〜 その他エッフェル塔グッズたち 〜〜
エッフェル塔クリップ。
エッフェル塔のしおり。
ユニークなエッフェル塔グッズを見かけたら狛犬までご一報を‥
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